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オランダからベルギーへ入る国境を通過するときには、街中の鉄道の踏切のような遮断機がある所で、全員のパスポートと貨物の内容表を見せるだけで簡単に通してくれた。
しかし、ベルギーとフランスの国境では、レンタカーを駐車場に止めさせられ、パスポートはもちろん、トランクの中までチェックされた。
トラックの荷物は内容表と照らし合わせながら、メザース君が細かい事まで質問されて、1時間近くもかかった。
国境が海に沈んでいて目に見えない島国に住んでいると、まったく分からないことだが、ヨーロッパの国境に来てみると、国どうしの仲の良し悪しが一目瞭然だ。
そう言えば、フランスとモナコの境に検問所があったかどうかまったく記憶にない。モナコ王家に跡継ぎが生まれなければ、フランスに併合されることになっているくらいだから、検問所などは作らせないのだろうか。プロヴンスの山道を下って行ったら、いつの間にかモナコの街に入ってしまった感じだった。
アムステルダムから、フランスGPが行われる南仏のクレルモン・フェランへ行く時も、二つの国境をこえ、北フランスのキャブレで、オテル・ムートン・ブランに一泊した。
翌日、パリ南東のフォンテーヌブローの森まで来て、ホテルでつくってもらったランチを食べていると、パトカーが走ってきた。
その後を、小さなフランス国旗を掲げたシトロエンのDS19が車高を下げて地を這うように疾走してきた。
「ドゴールだ」
と、メザース君が叫んだ。
シトロエンDS19には、1955年から、ハイドロ・ニューマティック・サスペンションがついていた。
圧縮窒素ガスをサスペンション・スプリングとして使い、すばらしい乗心地を誇っていた。それだけではない。大男が乗り込んで車が傾いても、エンジンを掛ければ油圧で、傾きを直し、車高を自動調整してくれる。その油圧で、各車輪の加重に応じたブレーキ力を発生させ、車速と舵角に応じた操舵力のパワーステアリングを作動させる。それに手動切り替えで車高を15cmも変えることができたのだ。
いかにも理想を追求してはばからないフランス人が考えそうな、画期的な車だった。
ドイツのベンツが、450SELに同じ原理のハイドロ・ニューマティック・サスペンションを採用したのは、22年後の1977年。しかし、車高は4cmしか変えられなかった。
後部座席に座っているドゴール大統領の、あの高い鼻が見えたような気がした。
ランチもすんでしばらく走っていると、フランスの歴史に出てくる“オルレアン”への矢印が目に止まった。
ドゴール将軍は、第二次大戦中、ナチス・ドイツに占領されたフランスを解放しょうと、イギリスから対独レジスタンス運動を呼掛けた。
500年前、神の告示を受けたと信じた17歳の少女ジャンヌ・ダルクは、オルレアン城を包囲していたイギリス軍を撃破しようと、勇み立つ兵隊たちを引き連れて、こんな埃っぽい畑の中を突き進んで行ったのかもしれない。
そんな思いが頭を掠めたが、私たちはのろいトラックと一緒に、クレルモン・フェランへの道を急がなければならなかった。
その後、フランスの何処を通ったか、記憶も記録も残っていない。ただ見渡す限りうねうねと続く広大な畑の中を、一日中走った事だけは忘れられない。
そして、このフランスの畑を眺めていて、日本の畑とはまったく様子が違うのに考え込んでしまったことを覚えている。
日本では、飢饉など、いざというときに水田に切り替えられるようにだろうか、大雨で表土が流されないようにだろうか、ほとんど水平に整地して段々になっているのが畑だ。
ところがフランスに来て見ると、稲を作らないのだから水田が無いのは当然としても、水平な耕地は殆ど無い。なだらかな起伏の続く地形には何も手を加えてない畑が、ただ、うねうねと何処までも続いている。
そんな畑を2時間走っても一軒の人家も見当たらない。一体、誰がどこから出て来て、この広い畑を耕すのだろうか?
パリやコート・ダジュール等、華やかな都会の印象だけが強い日本人に、実はフランスが大農業国だということを、嫌というほど分らせてくれた畑だった。
その広い広い畑の端の窪地に、やっと現れた二十軒ほどの農家は、石畳の一本道の両側に、仲好く肩を寄せ合った石作りの平屋だった。
天気の良い昼下がりなのに、静まり返っていて、なぜか、人っ子一人見当たらない。
しかし、人がまったく住んでいない見捨てられた村では決してない人間臭さが、どことなく漂っている不思議な家並だった。
レースが終わってアムステルダムへ帰る夕方、再び通ったこのような村で、人懐っこいオバアちゃん達が立ち話をしていたり、子供達が走り回っているのを見て、やっぱり人が住んでいたんだと、妙に安心したものだった。
後年、車でヨーロッパを旅行していて、あちらこちらの田舎で、沈黙した小さな石の村を通り過ぎる度に、フランスのこの村々を思い出した。
この広い畑と小さな村をいくつか通り過ぎて辿り着いた夕暮れの古都クレルモン・フェランは、どこから集まって来たのか、夏休みの学生と観光客でごったかえしていた。
ホテルとは別に、F1の整備は少し離れたガレージを借りてやってたせいか、またほとんど一日をガレージかコースで過ごしていて、ホテルにいる暇がなかったせいか、我々のホテルの部屋や外観がどんな格好だったか覚えていない。
ただ、各階の廊下に炊事用の流しとコンロが沢山並んでいて、お客が自分で自炊できるようにしつらえてある、日本なら、湯治用の温泉宿といった所だったことだけは、妙に頭にこびりついている。
北ヨーロッパの人達が夏のバカンスで南フランスにやって来て、長い間滞在するのは、こんな所に泊まるのだろうか。
実はクレルモン・フェランは古い火山の大きなカルデラの中にある。温泉もあちこちに湧いていて、湯治客も沢山いたようだが、私たちはそんな人達に目を向けている暇はなかった。
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