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丸野エンジニアの手記
ホンダF1最初の完走

 1965年 6月13日、どしゃぶりの雨の中で行われたスパ・フランコルシャンのベルジャンGPで、ホンダのF1は初めて完走した。しかも6位入賞、チャンピオンシップ得点1を獲得した。
 そんな記念すべきレースだったが、バイクではすでに62年からワールド・チャンピオンであり、F1は入賞ではなく優勝が目的のホンダチームは、何のお祝いもしなかった。
 ただ、関口監督から
「丸野、電報だよ」
と、渡された横浜からの電報で、長男が生まれたことを知らされた。私にとっては二重に嬉しい一日だった。

 その夕方、関口監督の思いやりもあったのか、6位のプライズマネーを受取りに行くことになった。私とメザース君は、久し振りにネクタイをしめて、スパのオートモビル・クラブへ向かった。車の中でメザース君が、
「テレビのクイズ番組をみていたら、エジプトのファラオの名前を当てて、100万円もらったやつがいたよ」
というので、
「それはツタンカーメンかい?」
というと、メザース君は、
「アナタも100万円もらえるよ!」
と叫んで、地球の裏側の日本人がどうしてツータンカーメン(メザース君はそう発音した)を知ってるのかと大変驚き、以後、私を見る目が少し変ったようにみえた。
 実は数年前、日本はツタンカーメン・ブームだった。あの黄金のマスクの展示会があったり、本が出版されたりしたので、私にも少しは知識があったのだ。

 オートモビル・クラブでプライズマネーのチェックを受け取ると、会計係りの人が、祝賀パーティが始まっているから、一杯飲んでいけと会場に案内してくれた。
 ホールを見渡すと、最前列に、優勝したロータスのジム・クラークが、珍しく濃紺のブレザーにストライプのネクタイで、オーナー監督のコーリン・チャップマンと嬉しそうに語り合っている。
 その隣は金切り声のジャッキー・スチュワート。新人ながらモナコで3位、ベルギーで2位と、めざましい成績をおさめた。ベテランのグラハム・ヒルと仲良く座っている。BRMチームのコンビだ。
 ドライバーだけではなく、入賞したチームのマネージャーやメカニック、レースの役員、それにホストの町の顔役まで100人ぐらいの大パーティで、がやがやとにぎわっている。

 席に着くと、ボーイが目の前の大きなグラスに、シャンパンを注いでくれた。まずは長男のためにメザース君と二人で乾杯。
 するとすぐ、グラスにシャンパンを満たしてくれる。こちらのパーティーでは、乾杯だけじゃなく、その後もずーっと、シャンパンを飲むんだ!と感心していると、地元の名士の挨拶のあとで表彰が始まった。
 その表彰の最後に、クラークが出場しなかったモナコで優勝し、今回は5位だったグラハム・ヒルが、ヨーロッパ選手権のタイトルか何かの理由で、クラークの優勝カップより大きなカップを贈られた。
 カップを受け取ったヒルは、ニコリともせずに中を覗き込んで「何だ、札束は入ってないじゃないか!」というような顔をした。手を突っ込んで掻き回し、カップを逆様にしてはたいて見せた。一同、拍手喝さい、大笑いだった。
 あまりに突然の出来事で写真を撮り損ねたカメラマン達が、
「もう一度やってくれ」
と、再三催促したが、太いヒゲの下で口を真一文字に結んだグラハム・ヒルは絶対にやらなかった。それにまた、拍手が沸いた。

 ヒルはユーモアあふれる人だった。
 モナコ・レースのスタート前、エビアン水の大きなボトルを抱えて、スターティング・グリッドに並んだF1の間を歩いていたのを思い出した。ポールポジションには、フロントカウルを切り開いて空気取り入れ口を大きくした、少し醜い彼のF1が待っていた。「オレの車はオーバーヒート気味で喉が乾くんだよ」と言うサインだったのだ。
 もちろん、観衆は大喝采。イギリス人ヒルの真骨頂である。

 その頃、走っているF1とピットの間には、テレメーターや無線等の通信手段は装備されていなかった。テストやプラクティスでは、各チームでいろいろなサインを案出して使っていた。
 例えば、ガソリンが少なくなった時には、コクピットから手を出して、ボディサイドのガソリンタンクを「カラになっちゃったよ。ポコポコ音がするだろう」と叩く真似をする。油温が高すぎる時には、「エンジンが暑いよ」と、額の汗を拭いた手をブルブル震わせる。水温が高くなったら、「喉が乾いてしようがないよ」と、コップで水を飲む真似をする。
 慣れた観客はちゃんと分かっていたようだ。

 さて、シャンパンがこんなに効くものとは知らなかった私は、運転をメザース君に代わってもらって、いいご機嫌でホテルに帰った。
 ところが翌朝、完走したギンサーのエンジンを開けてみて、びっくり。クランクシャフトが捩じ切れていたのだ。
 F1のエンジンを12気筒にするとオヤジさんが決めた時から、長いクランクシャフトの捩り振動は設計の大きな課題だった。
 クランクシャフトの中央から出力を取り出したり、両端にいくに従ってクランク・ピンとコンロッドを小さくしたりしたのも、捩じり振動に対する配慮だった。
 LSIではなくトランジスターを並べた三菱電機最初の電子計算機MELCOM1101と機械式タイガー計算機で、何回も捩じり振動の計算をした。
 しかし、圧入組立式クランクの圧入部分の応力勾配が完全には解析しきれていなかったのが悔やまれた。

 それにしても、あの勘の鋭いギンサーが、走り終わるまで何も感じなかったということは、ピットに戻って来てスイッチを切った瞬間に捩じ切れたのだろうか?
 走っている最中にクランクシャフトが捩じ切れると、ピストンとバルブがぶつかって、エンジンの中がメチャクチャに壊れる。シリンダー・ブロックが破れて水と油をコースにぶちまけるところだった。
 よく、言葉の上では、ゴールした瞬間にすべての部品の寿命が尽きるように、ぎりぎりの設計ができれば最高だというが、そんなリスキーな設計など狙ってできるものではない。
 ともあれ、これがホンダF1最初の、そして奇跡的な完走だった。