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モナコのレースが終わった夕方、レニエ三世通りのガレージでアムステルダムへの帰り支度をしていると、そこにひょっこり中村所付が現れた。
「オートモビルクラブへ行って、来年のためにも、お礼の挨拶をしてこよう」
ということになった。ホテルへ帰ってスーツに着替え、二人で出掛けた。
モナコは面積が2平方キロもない狭い所なので、どこへ行くにも、たいてい歩きだった。途中の郵便局で、昨夜久し振りに書いた手紙を出して、オートモビルクラブへ向かった。クラブの会長さんは留守で、お会いできなかったが、色白で小肥りのクラブのオジイさんは、いかにも観光地モナコの人らしく親切で人なつっこい方だった。1周目と33周目にリタイアしてしまった我々に対しても、
「是非、来年も来ていい走りを見せて下さい。今度はきっと良い成績が得られますよ」
と、元気づけてくれた。
中村さんもほっとしたのか、コーヒーでも飲んでいこうと、海の見える丘の上に見つけたキャフェに立ち寄った。
今日のレースのことは、モナコじゅうの人が知っているようだ。オーダーを取りにきたマダムは2人の日本人をみて、何の疑いもなくホンダの人間だと思ったらしい。もっとも、このモナコでは未だに、ホンダ以外の日本人には一人も会っていなかった。
「ホンダも4、5年すれば勝てるようになるわよ」
と、慰めのつもりで言ってくれた優しさに、「ありがとう」とお礼は言ったものの、
「オヤジさんは4,5年なんて、とてもじゃないが待ってくれないんですよ」
と日本語でつぶやいた。
今夜、研究所に電話して状況を報告すると、
「なんで勝てないんだ。どこが壊れたんだ? どういうふうに直すんだ? それで勝てるか? 次のレースには必ず間に合わせろよ」
とオヤジさんに詰め寄られるのは、目に見えている。
コーヒーを飲みながら海を眺め、気持を静めてからホテルへ帰った。
ホテルの部屋に着くのを待っていたかのように、電話のベルが鳴り出した。
受話器をとると、泣き出しそうな女の子の声で、郵便局からの電話だった。先程、切手を買った時に、初めて日本人を見て緊張したのか、間違って十倍のお釣を渡してしまったという。
良くも、モナコじゅうから、この僕を探し当てたものだと驚いたが、
「ちょっと待って」
と言い置いて、サイフの中身を調べてみた。
10フラン出して研究所長へのオミヤゲ分も含めて 6.5フラン分の切手を買ったのに、93フラン50セントのお釣が入っている。私の10フランを100フランと間違えたらしい。
ヨーロッパのお札は、高額の紙幣より小額の紙幣が大きかったり、古ぼけた絵柄の紙幣が高額だったりする。全部が同じサイズのドル札と違って、よっぽど注意しないと金額を間違えることがある。
それに私も中村さんが待っていたので、もらったお釣を確かめもしないでサイフに突っ込んだのだ。
「確かに、余分なお釣りがサイフに入っているから、すぐ返しに行きます」
といって電話を切った。
正面はもう閉まっていたので夜間通用口から入ると、さっきの女の子が忙しそうにお金の計算をしていた。お釣を手渡すと奥のほうにいた局長も、
「メルシー・ボークー」
と、にこやかに手を振ってお辞儀をしている。
「どう致しまして、日本人は正直でしょう」
という顔をして、こちらも手を振った。
ホテルにたどり着いてみると、みんなが車に乗って、私の帰りを待っていた。
半月も日本食をたべていない我々に同情して、ギンサーがシーフード・レストランに案内してくれるという。今夜もF1ドライバー運転の車で、フランス・イタリヤ国境に近いマントンの町へ向かった。
ギンサーとバックナムはF1の整備を手伝うわけではないから、何時も我々と一緒にいる必要はない。だから、どの街でもレンタカーを借りて動きまわっていた。
今夜も、そのレンタカーに乗せてもらったわけだ。アムステルダムからザンドフルトへテストに出掛ける時など、交差点で二人が並ぶと、ふざけてドラッグレースをやったりするが、今夜は実におとなしくていねいに走ってくれる。
マントンのレストランは地中海に張り出した崖っぷちに建っていた。暗くなって少し残念だったが、夜目にも素晴らしい眺めだ。ギンサーはモナコGPに何回も出場しているから、多分ここも彼が良く来る馴染みの店なのだろう。
彼が予約してあったのか、シェフが、
「今夜は近くの海で取れたこの魚を料理します」
と、見せに来た。
目の下50センチはある真鯛に似た今にも飛び跳ねそうな魚だ。鱗をきらきら輝かせながら、お客の我々を眺めている。モナコ王宮の崖下にある庶民の市場で見る魚達よりは、ひとまわり大きく立派だ。
しばらくして、再びテーブルに運ばれてきた薄いピンク色の魚は、大きなお皿の中央に蒸し焼きにされ、細かくちぎった葉っぱと、うす黄色の油がかけてあった。
イタリヤ料理がすっかりポピュラーになった最近の日本では、この葉っぱがタイムで、薄色の油がオリーブオイルであることぐらいは、誰でも知っている。
しかし、イタリヤ料理といえばスパゲティぐらいしか食べたことのなかった我々の間では、
「なんと味の薄い、気の抜けた料理だろう」
という意見と、
「いや、あっさりしていて、白ワインともピッタリ合ってオイシイ」
という気取った見解とに分かれた。
どのチームでも、ドライバーは、車が良ければもっと速く走れると思って、チームにいろいろと難しい要求を出す。チームは、ドライバーの腕が良ければ、うちの車だって勝てるはずだと、心のどこかで思っているものだ。
しかし、目的は一つ、優勝することである。
優勝に向けて、ドライバーとチームが心を通わせるためには、この様な楽しい食事を一緒にするのも有効だ。
レースに惨敗した後だけに、老練なギンサーは、そこを見抜いてディナーに誘ってくれたのだろう。
地中海育ちの真鯛のような目を持った、リッチー・ギンサーに感謝した一晩だった。
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