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F1エンジンの設計検討を始めて間もない頃、ホンダは、61年のチャンピオンカー、クーパー・クライマックス 1.5リッター4気筒F1を買った。ホンダの二輪レーサーだったマッキンタイヤ氏の未亡人から譲り受けたのだ。
F1が和光研究所に運び込まれたのを、どこから聞き付けたのか、野次馬たちが集まって来た。
「設計の参考にするのも良いけど、どんなもんか、まず皆で乗ってみようじゃないか。誰か所長に聞いて来いよ」ということになった。
OKが出たので、私も研究所の中の 200mしかないテストコースを2往復走った。
敏感なアクセルを恐る恐る踏み込み、用心深くクラッチをつないで発進した。ほっとしてセカンドに入れると、もうコースの向端。シフトダウンしてUターン。スピンしないぎりぎりまで加速してみた。
ステアリングの切れ味を試したり、ブレーキはどのくらいでロックするかと踏み込んでみたりしているうちに、2周はたちまち終ってしまった。この短いコースでは、F1の高速性能を味わうことが出来なかったのは残念だった。
だが、ちょっとアクセルを踏んだだけでも、ホイールスピンしそうに加速する瞬発力の強さと車体の軽さ、急にハンドルを切っても全然ロールしない重心の低さと剛性の高さに感銘をうけた。
この馬力の塊みたいなエンジンと、バカでかいタイヤだけのような車の身動きもできないコクピットの中で、F1ドライバー達はどんな運転をするのだろうかと長い間、想像だけを膨らませていた。
ホンダはその頃、アメリカでバイクを沢山売っていたので、日本に駐留していたアメリカの軍人達も、ホンダには大変興味をもっていた。工場と間違えて、見学させてくれと研究所にくる外人が、いつも守衛さんを困らせていた。
マッカーサーの後を継いだ最高司令官の中には、研究所に本田宗一郎を尋ねて来る人もいて、私が通訳に駆出されることもあった。
最高司令官が、
「息子にホンダのスポーツカーを買ってやるつもりです」
といったのを通訳したところ、
「それは大変光栄なことです。一台進呈いたしましょう」
と社長は気軽にこたえる。
「ただで頂くのは申し訳ない」と、ポケットから1ドル札を取り出して、それにサインし、私の通訳は通さずに、「これで勘弁してください」と、社長に手渡した。
皆の爆笑の中で二人は握手し、取り引きは成立した。
ホンダのF1が初めてレースに出場した1964年。ドイツ、イタリヤ、アメリカを回って研究所に車が帰って来た頃、アメリカでのレースを見損なった1ドル札の最高司令官が、是非、F1を見たいと言ってきた。
幸い二人ともアメリカ人だった我々のF1ドライバー、ギンサーとバックナムの運転で、和光工場の端のテストコースを走らせて見せることになった。
コースの端にF1を運び込んで、方向を変えるのに、切れ角の小さなハンドルでは3回も切り換えさないと、F1の向きを変えることはできなかった。
そんな小さなスペースが両端にある300m位のコースで、どういうふうに走るのだろうかと思っていると、ギンサーがスタートした。
向こうの端まですっ飛んで行って、くるりとスピンターン。こちらの端まで突っ走ってきて、その場でスピンターン。
次にバックナムも加わって、片側一車線づつしかない狭いコースを、2台のF1が物凄いスピードですれ違いながら走りだした。
最高司令官の警備に来て、コースの要所を見張っていたMP(ミリタリーポリス)達も、腰に付けた拳銃のことなどスッカリ忘れて、目でF1を追いかけまわしていた。
F1初参戦の64年は、アメリカのスポーツカーレースのスター、ロニー・バックナムの一台でGPレースを戦った。F1の実戦経験豊富なリッチー・ギンサーがホンダ・チームに加わったのは64年のシーズンオフからだった。
ギンサーは61年のモナコF1GPでフェラーリに乗り、ロータス・クライマックスの、かの有名なスターリング・モスと首位を競って大接戦を演じた。惜しくも3秒差で2位になったが、ヨーロッパでは有名な伝説。また62年にはグラハム・ヒルに次いで年間チャンピオンシップ2位になった経歴の持ち主。だから、我々の走行テストも一段と進展しだした。
スズカサーキットで、バックナムがF1をテストしているのを眺めていたギンサーが、突然、
「マルノ、行こう」
と、私をホンダのスポーツカーS600の助手席に乗せ、第二コーナー手前の外側でバックナムが来るのを待ち伏せた。
F1がグランドスタンド前を駆け抜けるのをみて、ギンサーはS600を発進させた。バックナムのF1より少し前に第2コーナーに入って、F1がコーナーを、はらまないで曲がるように、S600で外側から幅寄せするためだったのだ。
ギンサーは、四輪ドリフトして横から迫ってくるF1のバックナムにウィンク。ヒョイと逃げて、またすり寄っていく。
緊張した様子も見せずに、しなやかな手付でS600のハンドルを操り、軽い足首の動きでアクセルペダルをあおる。前輪と後輪の横滑りを自由自在にコントロールしながら、F1をギリギリに幅寄せしている。苦笑するバックナムに、いたずらっぽく笑い掛けながら。
これが素人の運転だったら、F1にはね飛ばされそうで、居ても立ってもいられないところだが、こんなにうまい運転だと、隣に座っている私も手足を突っ張ることもなく、二人のやりとりを楽しんでいた。
そのギンサーが、モナコGPの第一周目、トンネルを出て海岸の坂を下りて行くのを、松並木の中のピットから見ていた私は、アアーッと息をのんで、わが目を疑った。
坂の下は、外側が石垣、内側には海が迫っていて、直角に曲がる狭いタバコ屋コーナーだ(現在の大きなカーブではない)。そこに向かって必死で減速している他車を、20〜30km/h速いスピードで、するすると追い抜いてゆく……。
「気でも狂ったのか。石垣に張り付くぞ!」と見えないタバコ屋コーナーに向かって耳をそばたてたが、物が壊れるような音はしない。
恐る恐る、ピットから身を乗り出してタバコ屋コーナーの方をのぞいていると、左手を上げたギンサーの車が、無傷でゆっくり惰行してくる。
ドライブシャフトのクロスジョイントが壊れて、エンジンブレーキが効かなくなったのだそうだ。
レースの後でギンサーに、冗談のつもりで言ってしまった。
「あんなに速いスピードでタバコ屋コーナーを曲がれるんだねぇ」
何時もあんなスピードで曲がれば優勝するのに、と口に出かかったが、やめた。
彼は顔をゆがめて、首を振った。
やっぱり命がけだったのだ。
これより1年余り前、ジャック・ブラバムがスズカでホンダのF1をテストしている合間に、こんな質問をしたことがあった。
「カーブに入って、しまった、スピードが速すぎた!このまま行くとスピンしてコースアウトだ。 と思ったら、どうするの?」
ジャックは、
「カーブを多角形に曲がるのさ。ちょっと曲がってハンドルを戻し、直進してる間にフル・ブレーキをかける。ブレーキをゆるめてちょっと曲がり、直進して全力でブレーキを踏む。スピンしない様に直進で減速するんだよ!」
「???」
ギンサーは、タバコ屋コーナーを多角形に曲がったのだろうか。
とても聞ける形相ではなかった。
その後も、レストランへ行ったり、ザンドフルトのテストに出掛けたりする度に、ギンサーの運転するレンタカーに乗せてもらった。何時も感心させられたのは、彼のスピード・コントロールの旨さだった。
冗談をいいながら走るのだが、柔らかく抱き上げられるような、フワーッと優しい加速の楽しさ。カーブを走り抜けても、振り回される感じが全然しない、こんな心地よい曲り方があったのかと思わせるハンドルの切り具合とアクセルの加減。
もちろん、車を縫って走るコースどりの旨さ。他車を追い越す時の絶妙なタイミング。追い越された相手は怒るどころかスガスガしい顔をしている。それに赤信号でシフトダウンして行く減速の滑らかさと、いつ止まったか分からないブレーキの緩め具合。
こんなドライバーに運転してもらってると、車に乗っているのが楽しくて降りたくなくなる。
やっぱり一流のF1ドライバーは、車を運転する芸術家なのだ。
ギンサーは技術ではなく芸術で、タバコ屋コーナーを曲がったに違いない。
しかし私は、天国に行ってしまったポール・リチャード・ギンサーに、それを確かめる術を知らない。
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