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丸野エンジニアの手記
モナコのピット

 モナコは街中の道路をレースコースにしている。
 スターティング・グリッドも、ビルと、海岸通りの松並木に挟まれたアルベール一世通りに並んでいる。だから、モナコのスタート地点には、F1を整備したり、保管しておくような場所はなかった。
 各チームはそれぞれ、街のあちこちに点在する民間のガレージを借りていた。
 また、松並木の中のピットの近くには、トラックを止めておくようなスペースもないから、F1は街の通りを自走してピットまで行かなければならなかった。

 プラクティスの第一日目、広くはないモナコの道路はレースファンでごったかえしていた。混雑する人と車をかき分けながら、メカニック達がF1を運転して、スタート地点に向かっているようだ。街のあちこちからF1の排気音が響いてくる。
 われわれもレニエ三世通りのガラージ・ド・ルエストを出て、アルベール一世通りへ向かった。
 高回転で高馬力を狙ったホンダのエンジンは、4000回転以下ではエンストする。しかも、4000回転を超えると、とたんに大馬力が出るから、通行人にぶつけないように気をつけながら、歩くスピードで運転するのは至難の技だ。
 ウワン、ウワーンとエンジンをふかしながら、チョコンとクラッチをつないで少し走り、人にぶつかりそうになるとブレーキを踏む。またウワーンとアクセルをふかして少し進む。
 エンストしないように苦労しているメカニックに付き添いながら、工具やストップウォッチやサインボードを持って、やっとの思いで、初めて見るモナコのピット前に辿り着いた。

 そこに集った色とりどりのレーサーを見て、私はちょっと意外な思いにかられた。
 レースの日の午前中にはクラシックレーサーのエキジビジョンレースがある。我々にとっては神様にも等しいファンジオが、幻の名車、ベンツのW196を走らせる。あの猛者スターリング・モスも出走する、という噂は聞いていた。
 しかし、F1レースの前座として時々行われるF2(1000cc4気筒)のレースをモナコでもやるとは聞いていなかった。もし、やったとしても、F1の時間に、F2が片付けられていないということは、西洋人もだらしがないなあ、と思ったのだ。
 ところが、プラクティスが始まってみると、走り出した車は、私が小柄なF2と思っていたF1車達だった。
 初めて見る1500ccV8エンジン縦置きの他車は大変コンパクトだ。V12横置きの我々のF1に比べて、胴体がひとまわり、いや、ふたまわり細い。
 こんなに太い車で勝負になるのかと、いささか心配になった。

 そういえば、一年ほど前の1964年 3月 9日、1959年と60年のF1チャンピオン、ジャック・ブラバムが、スズカで我々のF1プロトタイプRA270に乗った後の、遠慮のない感想が私の手帳に残っている。
「馬力不足、too heavy、“too fat”、old fashioned construction」
 ジャックの意見も入れて、実戦用のRA271は設計し直した。
 シリンダーとシリンダーの間隔をギリギリに詰めた。クランクシャフトからカムシャフトを駆動するギヤトレーンの幅を極端に狭くした。スターターや点火装置やタコメーターギヤの位置を移動した。そしてエンジンの長さを12cmも短くし、車体を細くしたつもりだったのに、まだまだ太かったのだ。

 ピットに入る前から初めて見るものばかりで、つい話が脇道にそれたが、地球の裏側から遠路はるばるやって来た我々ホンダ・チームにあてがわれたピットは、前年度のチャンピオン、フェラーリ・チームの隣だった。
 フェラーリとの間には、高さ1m位の仮設の板塀があるだけで、中が丸見えだ。工夫した工具類や、サイン・ボード等が置いてある。車がピットインして来た時のメカニックの動きなども良く見わたせて、大変参考になった。
 この頃、レース中にピットインして燃料補給をしたり、タイヤを交換することはなかった。またピットの囲いからコースに出て車に触れるメカニックは一台三人と決められていたから、ピットにいる人数も少なかった。
 フェラーリは会社が北イタリアのモデナにある。モナコからはたったの 400km。東京と鈴鹿ぐらいしか離れていない隣近所のせいか、そのピットは、モナコ王家のロイヤル・ボックスの真向かいにあった。

 ロイヤル・ボックスは、スターティング・グリッドが並んでいる道路をはさんで、我々のピットの列を見渡す向側の一段高い所にあった。
 レース当日、黒塗りの車が止まって、にわかに拍手が沸きおこった。
 ダーク・スーツのレニエ3世と、真っ白なドレスに白い帽子のグレース・ケリーが、手を振って赤いジュータンを敷きつめた階段を上っていった。
 二人は、ベルギーやオランダ、デンマークやノルウェーなど、ヨーロッパの王家の人々が待っている、華やかなロイヤル・ボックスにおさまった。
 メザース君が説明してくれる王族の人々を眺めながら、よく美術館で見かける大きな額縁の中に描かれた王家の肖像画を思い浮かべていた。
 しかし、勲章を付けているのでもなく、燕尾服や裾の長いドレスを引きずっているのでもない普通の格好をしていると、王族の人々も、街で見かけるヨーロッパ人達とまったく区別が付かない。考えてみると、当り前なのだが、ちょっと意外な感慨を覚えた。
 このロイヤル・ボックスは、レースが終った後、優勝したグラハム・ヒルが招かれて、レニエ3世から優勝カップが、クリスタルのカップ(シャンパンではない)をグレース・ケリーから贈られる表彰台にもなるのだった。

 ホンダのピットもまた最高の場所にあった。
 ロイヤル・ボックスの正面にあるフェラーリの隣だから、階段を突っ切って、斜向かいにいるグレース・ケリーのピッタリくっついた眩く白い二つの膝頭が、真直ぐこちらを凝視している。
 振り返って海の方を見ると、バックストレッチを挟んだプールサイドでは、若いカップルたちが甲羅干しを楽しんでいる。

 いや、そんなことに気を取られてレースをなおざりにしていた訳では決してない。
 100周のレースをギンサーは1ラップの終りに、バックナムは33ラップ目に、早々とリタイヤしてしまったホンダ・チームのメンバーは、レースが終わるまでの3時間近く、ピットの中でじっと我慢していた。
 当時のコースはプールの海側を迂回せず、タバコ屋コーナーから松並木に沿ってプールの陸側を真直ぐ走っていた。最近のピットロードを逆走するのがバックストレッチだった。
 前と後をレーサーが疾走するコースに挟まれた、幅4mほどのピットの中で、時にはオイル漏れの車から、海風に乗った油の飛沫をあびせられた。また、水漏れのレーサーが通り過ぎると、生暖かい霧雨が降ってきた。松並木の中だから屋根などなかったからだ。
 そんなピットの中で、無念の思いを噛み締めながら、他車の走りっぷりや、サインの出し方、ピット作業のやりかたなど、何でも吸収してやろうと目を皿のようにして見ていたのだ。

 この頃、松並木の港側やプール付近にはスタンドなどはまったくなかったから、ピットから港がよく見渡せた。
 レーサーがトンネルを抜けて、モナコ港の北岸に現れ、長い坂道を下る所がある。その坂の途中でレーンチエンジをするようにコースが変わるあたりを、プールごしに眺めていた時だった。
 なんと、レーンチエンジし損なったF1が欄干の下を潜り抜けて、フロント・カウルとボディーが別々に分かれながら、下の海にむかってダイビング!
 車体の軽いF1は大きなタイヤとガソリンタンクにも助けられてフワリと着水した。あっと思う間もなく、エンジンをかけて待っていたのかモーターボートが現れて、車体が沈む寸前にドライバーを救出した。  何という早業。手回しの良さに驚かされた。

 最近テレビでレースを見ていると、欄干の下はガードレールでガッチリ塞がれている。下にモーターボートを待たせておく必要もない。しかし、それでも、今もアクアラングをつけたダイバーが、ボートの上から来ることのない出番を待っているという。
 また、例のレーンチエンジ部分にはシケーンができた。下のタバコ屋コーナーも内側の海を埋め立ててスタンドが出来、大きなカーブになった。
 グランプリドライバーズ・アソシエーションの不安全に対する抗議の成果だろうか。