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丸野エンジニアの手記
バックヤード

 アムステルダムは、日本からの便数が多いスキポール空港を擁し、ヨーロッパのほぼ中央にあって、各国のレース場へ移動するのに、地理的にも有利だ。それにF1の走行テストができるザンドフルトのサーキットにも近い。
 そのような理由から、ホンダのF1整備基地は、スキポール空港に近いアムステルダムの郊外にあった。自動車修理工一家のバックヤード(裏庭)にある40平方メートル位のガレージを借りていた。

 ホンダのF1は構造が複雑で整備するのが大変だった。
「エンジンやトランスミットョンは細かく分割しないで一体に作る方が、コンパクトで軽く丈夫に出来る」というのが、オヤジさんの考え方だった。
 F1のエンジンとトランスミッションを、バイクと同じように、一つのケースの中に組み込んだのも、この思想によるものだ。
 しかし、V型12気筒の複雑な形状のケースを鋳造して加工したり、その中に多くの部品を正確に組み込んで調整するには、大変な時間がかかった。
「それはレース中にやるんじゃないから、いいじゃないか」
というのがオヤジさんの言い分だ。ごもっとも。

 ただ、一つのケースにピストンやクランクシャフトやトランスミッション・ギヤからデファレンシャルまで、ほとんど全部組み込んだ後で、ポトンと、小さなボルトを一本取り落としたりすると、大変だった。
 細い棒の先に付けた磁石で取り出すことができれば幸運。どうしても見つからなければ、全部分解して、ボルトをつまみ出し、もう一度組み立て直さなければならなかった。
 レース中に、ギヤにでも噛み込むと、トランスミッションがロックして、ドライバーの命取りにも成り兼ねないからだ。
「チャンと注意してやればいいんだよ」
と、オヤジさんにいわれるのは、分かっている。
 壊れないで他車に負けない性能が出ていれば、オヤジさんの考えは完璧なのだが、まだまだ、そこまで熟成されてはいなかった。

 レースは二週間に一回、ヨーロッパ各国で開催される。その週末前後以外のほとんど毎日、レースの度毎に壊れるエンジンや車体の整備と改良に、朝早くから夜遅くまで寸暇を惜んで、このカレージで働いていた。

 昼食もレストランまで行く時間が惜しいので、私がみんなの要望をきいて、街のチャイニーズ・レストランまで買い出しに出掛けた。あれこれ選び集めた少しは日本食にちかい中華料理を、部品箱の上に並べて、みんなで取り分けて食べていた。
 そんな、散らかったガレージの中の食事は、はずかしくて西洋人には見られたくなかったから、戸を半分閉めていた。
 ところが、たまたま奥さんとアムステルダムに来ていた我々のF1ドライバー・ロニー・バックナムが、ひょっこり入ってきた。
 いやだなあと思っていると、それを悟った妻のナンシーがロニーを連れ出しに来てくれた。
 ハリウッド映画でしか知らなかったアメリカの女姓にも、こんなに繊細な心遣いをする人がいるのかと認識を新たにし、後でナンシーに、こっそりお礼をいった。

 ここで働いていたのは、ホンダのメンバーだけではなかった。
 関口久一監督をはじめ全員が油まみれで車の整備をしている傍らで、ホンダ・チームにタイヤを供給していたグッドイヤーのイギリス人二人が働いていた。
 テストやプラクティスやレースに使う3台分とスペヤ用に、新しいタイヤのバリを取り除き、リムに組み付けてバランスを調整する作業をしていた。
 二人といったが、タイヤの交換をしていたのは腕の太い頑丈な男。小柄なもう一人は空箱に腰掛けて一日中、ただ見ているだけ。
 レースの前など、作業が深夜に及び、一人があの大きなタイヤと汗びっしょりで格闘しているそばで、もう一人は腰掛けて黙って見てるだけ。
 ホンダだったらオヤジさんだって、つい、タイヤ・レバーを握って手伝いそうな場面にも、絶対に手は出さない。
 人数はたった二人でも、ワーカーとスーパーバイザーでは、任務もユニオンも異なるのだろう。これが庶民と貴族をはっきり区別し、植民地を支配してきたヨーロッパの仕事のやり方なのかと、歴史と文化の違いを思い知らされた。

 ガレージを借りている自動車修理工氏の家並には、通りに面してバラが2〜3本植えてある小さなフロントヤード(前庭)が付いている。その後に、二重レンガ造り(防寒対策?)の二階家が隣の家とは車が通れるだけの間隔をおいて、横にぎっしり建ち並んでいる。 それぞれの家の奥にはバックヤード(裏庭)がある。ちょうど、空港に着陸する直前に上空から見える、ヨーロッパのごく一般的な家と庭との配置になっていた。
 通りからは見えない、程よい広さのバックヤードは、ヨーロッパの人達にとって家の中と変わらない、居心地のよいプライベートな生活空間である。

 2才の子供はオモチャの車を走らせたり、オヤツを食べたり、三輪車を乗り回したり、オマルに腰掛けて用を足したりしている。
 奥さんは洗濯物を干したり、隣のおばあちゃんと垣根越しに世間話をしたり、オカズをあげて、花をもらったりしている。
 隣のバックヤードには自慢の花壇がある。色とりどりの花の手入れに余念がない。
 三時のお茶に、我々が呼ばれることもあった。そこに隣の老夫婦が加わって、片言の英語と手真似で世間話をする。意味が通じるだけでも、うれしかった。
 私も、オランダ人がサンダル代わりにつっかける木靴を履いてみたり、少しは英語が話せる中学生の娘さんに、友達の話を聞かされたりした。

 ひとのうちのバックヤードで一日中動き回っているのは、その家族の一員として生活しているようなものだ。お互いの気心もすっかり判ってしまう。
 そういう意味で、ここにいた二月半、旅行ではとても体験できない、普通のオランダ人の着飾らない生活振りを、すっかり見せてもらった。

 7月の初め、イギリスGPに出かける前日に、一日かかってガレージをきれいに片付けた。F1をトラックに積み込んでホテルに引上げた。
 翌朝トラックをとりに来てみると、バックヤードのすみに、お互いに追突したのか、一台は後が、もう一台は前が壊れた同じ型の2台のフォード・ゼファー(クラウン位の車)が置いてあった。こんな車をどうするのだろうと、何となく頭のはしっこに引っ掛かっていた。
 イギリスから帰ってきて驚いた。壊れていない前半分と後半分をそれぞれ切り取って繋いだらしい。車体中央のセンターピラーのところで天井から床まで全周、外板と内板をそれぞれ、みごとに溶接して繋ぎ合わせた、ゼファーの完全なモノコック・ボデーが、ガレージの奥に置いてあった。
 次の週にザンドフルトのレースが終ってハーレムから帰って来たときには、塗装も内装も新品同様、エンジンやタイヤも取り付けられて、新車と見分けの付かない立派な車に仕上がっていた。

 オランダGPの後、一時日本に帰ることになった我々は、一家をお別れパーティーに招待した。その頃オランダで唯一の日本食レストランがあつたスヘフェニンヘン(我々はスケベニンゲンといっていた)まで、この「ニコイチ」のゼファーに乗せてもらった。(ニコイチ:2個1:2台の車の良い部分だけを拾い集めて1台をデッチアゲルこと。70年代までは日本でも流行った)
 ゼファーは、ガタツキもせず、ミシリともいわずに、大変快適に走った。マイスターの腕前にすっかり感心させられた。

 それと同時に、このガレージが、そういう仕事にも使われていたのかと考えてしまった。
 いや、そういうこともするのがバックヤードなのだと納得したのは、ロスアンジェルスに駐在して、アメリカ人がバックヤードやガレージで、何をやっているかすっかり見てしまったからだ。
 アメリカではバックヤードで、ニコイチどころか、原子爆弾だって作れると言うぐらいだから、日本の裏庭とは、まるっきり話が違うのである。