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毎晩、夜中になると、ホテル・ボルグマンの、まだうら若いプローイ夫妻のドアを、気兼ねしながらノックした。
起きてもらって、朝になった日本の研究所に国際電話をつないでもらっていたのだ。テストやレースの結果を報告して、こちらで欲しい物を作って送ってもらうためだった。
この頃の国際電話は、大変聞きとりにくかった。
通信衛星などはなかったから、短波無線を使っていたのだろうか。それとも、ヨーロッパからアメリカまで大西洋の海底を電話線で走り、アメリカ大陸を跨いだ後、また海底ケーブル(光ケーブルではない電線)で太平洋の大きなうねりを潜り抜けていたのだろうか。20秒ぐらいの周期で声が大きくなったり小さくなったり波打っていた。
電話を受ける研究所には5平方メートルぐらいの静かな国際電話室があった。その電話にはテープ・レコーダーが繋っていた。受信者は大きな声で確かめながらメモをとった。一時間を超す長電話がすむと、テープを聞き直してメモを整理し、各部署がやるべき作業を書き加えて、関係者に配布した。
その頃になると、オヤジさんが出社して来て、「それじゃ、こうすればいいじゃないか、ああすればいいじゃないか」「ここは、こうしろ」「グズグズしてないで早くやれ」「次のレースに間に合わせろよ」と、かき回した。
配布したメモを回収して、配り直したこともあった。
F1の部品は、高価で市販車にはとても使えないチタンやハイスやマグネシュウムなど特殊な材料を、腕自慢の熟練工が絶妙な技で加工し、特殊な熱処理を施して造る。
しかし、オヤジさんに攻め込まれると、さらに性能を上げるために設計者は、もっと厳しい加工技術を要求する図面を描く。
もちろん、加工屋さんに出来るかどうか相談はするのだが、本当に意図したように出来るかどうか気になって、出来上がるまで見守ることになる。ダメなら、他の手を打たなきゃならないからだ。
夜遅くなると、工作機械の横に椅子を並べて仮眠を取りながら付き添う。帰りが終電車に間に合わなくなると、守衛さんが布団を取り出した押入れに潜り込んで寝た。バイクを含めて自家用車を持っていたのは数えるほどしかいなかったからだ。
もちろん徹夜になることもしばしばだった。しかし、不思議なことに過労や心労で病気になる者はいなかった。どこかでうまく息を抜いていたのだろうか。
いずれにしても、対策品の製作は徹夜もいとわず、次のレースに間に合うように完遂されるのが常だった。
レースは時間が勝負だから、品物はすべて航空便で送って来る。従って私は殆ど毎日、スキポール空港に車で行って、荷物を受け取って来なければならなかった。
空港ゲートを入る度毎に、入場料を1ギルダ(百円)づつ取られていたのだが、ある日、守衛達はバッヂを欲しがっていることが判った。
苦い経験をしてきた二輪チームの入れ知恵で用意してあったホンダのバッヂと帽子を一つづつ全員に配った。その後は、ハーイと手を上げるだけで、私の車はタダでゲートを通してくれるようになった。そのうえ倉庫の中を自由に歩き回って荷物を運び出すことも出来た。
空港に部品を受け取りに行ったり、その部品を組み込んでザンドフルトのコースへテストに出かけたりしているうちに、アムステルダム付近の様子も少しづつ分かってきた。
一番驚いたのは、何と言っても自転車の多いことだった。
少しでも高い所があれば削って、その土で堤防を築き、浅い海を埋め立てて、国土を広げてきた真っ平らな国だから、坂道はない。あったとしても地面と殆ど同じ水面の川を越える橋ぐらいのものだ。
川といったが、間違いかも知れない。というのは、オランダには至る所に水路があり、それが川なのか、運河なのか、我々日本人には区別がつかないからだ。
車で郊外を走っていると、突然、大きな貨物船が畑を横切って走っているのに出くわしたりする。そこには運河があるのだ。堤防が高くないから船は畑の土の上を走っているように見える。
雨が降り続いても、日照りでも、同じ水位に管理された水路が縦横に張り巡らされた真っ平らな土地が何処までも広がっている。まさに自転車で走るのに、ぴったりに仕上がっているのがオランダなのだ。
その自転車に乗ってる格好が面白い。
オジサンは素足に木靴で、オバサンはスカートをひるがえしながら、紳士はネクタイを風になびかせ、子供は幅の広いランドセルを背負って、若い二人は肩を抱き合ったまま並んで自転車で走る。雨が降りだせば、体の前面に、新聞紙を風で張り付けて走る。
車道と歩道の間には必ず自転車専用レーンが付いている。
店の前の駐輪場には、前輪がぴったり入る幅で深さ15cmぐらいの駐輪溝が並んでいる。そこに前輪を突っ込んでおくだけで、自転車は真直ぐに立っている。
これがないところでは、車道と歩道の段差を利用する。低い車道に置いた自転車を少し歩道側に倒し、真下まで踏み下ろしたペダルを上の歩道の端にのっけて、サイドスタンド代わりにする。自転車の国ならではの工夫に感心させられた。
私もホテルの隣の中学生の自転車に乗ってみようと、跨いではみたが足が届かないので諦めた。オランダ人はみんな背が高くて体が大きいから、日本人は弱々しい子供にみえたことだろう。
ある晩夕食のあとで街を歩いていたら、
「お前は日本人か、オレと柔道をやらないか」
と体格のいい若者に誘われた。
そういえば街のあちらこちらに柔道クラブの看板を見掛けたが、ヨーロッパ人と柔道の取合わせにはいささか違和感を抱いていた。しかし、前の年の東京オリンピックで、オランダの大男ヘーシンクが、無差別級で柔道国日本に勝って優勝したのも事実だった。
柔道は体よく断ったつもりだったが、若者は勝ち誇った顔をして嬉しそうに立ち去った。
夕食後の散歩の時にも、私の頭から離れない心配ごとが一つあった。日本から航空便で送り出されたF1エンジンが1台、二週間たっても届かないのだ。
輸送担当の日進運輸とアメリカン・エクスプレスが世界中探しているが未だに見付かっていない。次のレース用にバージョンアップしたエンジンだったのに。
結局このエンジンが届いたのは、当てにしていたレースが終わった三週間もあとのことだった。
アメリカが、北爆を始めたベトナム戦争の煽りで、航空貨物が混乱していたせいか、シドニー空港の倉庫に眠っていたのだそうだ。
研究所が徹夜して作ってくれたエンジンは可愛そうに、余程眠たかったのだろう。
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