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丸野エンジニアの手記
16気筒エンジンの写真

 ホンダのF1は、1964年8月2日、ニュルブルックリンクのドイツGPを皮切りに、イタリヤ、アメリカのGPレースに出場した。そして、レース毎に沢山の問題点を浮き彫りにしてくれた。

 それぞれの対策もようやく織り込み終わって、1965年のモナコ・レース用に、ヴージョンアップしたエンジンの図面を描き始めていた頃だった。自動車雑誌『モーターファン』の三栄書房から、
「イギリスのF1エンジンメーカーCoventry Climaxが、水平対向16気筒のエンジンを作っている。その写真が手に入ったから見に来ないか」、
という連絡があった。

 昔からレースに出ていたロールス・ロイスやジャガーかアストン・マーチンがF1エンジンを作っているのなら話は分かるが、コヴェントリー・クライマックスは、消防自動車のメーカーということだ。どうしてF1のエンジンなんかを作っているのだろうか。

 産業革命の口火を切ったイギリスでは、火事場に最初にすっとんで来る速い消防車の人気が高く、一番良く売れたのだろうか。その技術の宣伝の為に、わざわざF1エンジンを開発しているのだろうか。

 設計の仕事が忙しくて、そんなことを調べている暇は無かったが、ジャック・ブラバムはコヴェントリー・クライマックスのエンジンを積んだクーパーで、1959年と1960年に、F1の年間チャンピオンになっている。とにかく優秀なエンジン・メーカーで、我々の競争相手には違いないのだ。

 「さて、どうしようか。我々のF1エンジンの様子を探る雑誌社のエサには違いないが、16気筒エンジンの写真も見たい」、といってるうちに、
「丸野、行って見て来なさい。ただし、うちのエンジンのことは一言もしゃべっちゃいかんぞ」、
と新村さんに言われてしまった。

 それまでホンダは、F1エンジンに関して一切情報を公開していなかったのだ。
「そんなムシのいい話が通るのだろうか。まあ、見せてもらえなきゃ、それでいいや。どうせ盗み取りしたピンボケの、たいした写真じゃあるまい」、と、自分にいいきかせて、三栄書房へ向かった。

 応接室に通されて、『モーターファン』の写真で見知っていた星島浩氏の顔を見るなり、私は言った。
「星島さん、申し訳ありませんが、うちのエンジンに関しては一言もしゃべるなと釘をさされて来ました」

 「いやいや結構です。ホンダさんの参考にしていただくだけで、私たちはうれしいんですよ」
 といって、ネガから焼いたらしく、カッチリ、ピントの合った写真を机の上に並べられた。ピストンとコンロッドがついた16気筒クランク・アッセンブリーの写真には、寸法が分かるように物差しまで一緒に写してある。それからエンジン全体の外観写真やシリンダー・ブロックの写真、エンジン全体の中身が分かるカット図、それにエンジン諸元表まで見せていただいた。

 黙りこくって、ただじっと見ているわけにはいかない。ホンダ・エンジンとの比較と受け取られないよう慎重に言葉を選びながら話をし、目では写真と諸元表を出来るだけ細かく覚えて帰ろうと必死になっていたら、
「どうぞ、これは全部さしあげますから、お持ちください」
と、親切にも封筒に入れて下さった。

 この写真が『モーターファン』誌に掲載されたのは2カ月後の1965年 4月号だった。しかし遂に、このエンジンがレースコースに姿を現すことはなかった。

 1999年 1月29日、川本信彦前社長のKnight叙勲式と祝賀パーティが、イギリス大使館で行われた。そこで三栄書房の応接間以来はじめて星島浩氏に再会した。

 「ホンダのFIエンジンに関しては一言もしゃべるなと言われて、おこがましくもコベントリーFIエンジンの写真を見せて頂きに行ったことがありました」
と挨拶したら、
「ホンダさんのお役に立てれば、それで良かったんですよ」

 34年前と同じ言葉が返ってきたのにはびっくりした。と同時に、あの時の言葉は真心から出たものだったのだと胸を打たれた。

 ありがたいことに、ホンダのF1は日本国中から応援して頂いていたのだ。