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丸野エンジニアの手記
ゴールド・メタリックのF1

 テスト車整備場を通り抜けようとした時だった。

 新しく開発を始めた軽トラックのTN360をオヤジさんが覗き込んでいる。と、思う間もなくオヤジさんは、そのTNに乗り込んだ。エンジンをかけてテストコースへ行こうと、出口のシャッターへ向かった。

 この車は、運転席が一番前にある。フロントガラスの下はストーンと何も出っ張った物のないキャブオーバータイプだ。

 そのTNが、閉まっているシャッターに、ガシャーンと、めり込んで止まった。

 大変だ! オヤジさんが壊れたフロント・ガラスに顔をぶつけて、血だらけになったかも知れない。
  私は慌てて走った。

 どうしてシャッターの手前に止まって、シャッターが自動的に上がるのを待たなかったのだろう?
 と訝かりながら近付くと、オヤジさんが無傷で降りてきた。

 「直しといてくれなぁ」
と、バツが悪そうな顔で、呆気に取られている私に告げて立ち去った。

 「どうしたのですか!」
と叫ぶ声に、やっと我に帰った。

 物音に驚いて駆け付けた車両テストの人たちに、事情を説明すると、
「ブレーキ・ホースを探しに、ちょっと車を離れたところだったんですよ」
「ということは、ブレーキ・ホースは付いていなかったのか? 道理でオヤジさんはシャッターの手前で止まれなかったんだ。スピードが出ていなくて良かった!」

 この事件以降、作業中の車には“どんな作業をしているか”書いた紙を、必ず運転席の前のフロントガラスに張り付けておくようにと、厳重な通達が出された。

 そうしないと、どんな車にも“お客さんの身になって”と言って、自分で乗ってみなけりゃ気の済まないオヤジさんの命と、我々の心臓が、幾つあっても足りないからだ。

 ホンダF1第一号車のパイプ・フレームの車体にエンジンが組み付けられた。どでかいタイヤ(今見ると細いが)と小さなステアリング・ホイール、燃料タンクやウィンド・シールドなどが組み付けられていく。
 オヤジさんは、毎日見に来ていた。

 窮屈なコクピットにおさまって、ブレーキ・ペダルを踏んでみたり、クラッチ・ペダルの具合を試したり、シフト・レバーの動きがなめらかでないと改善を命じたりしていた。そして今日は乗れるか、明日は走れるかと、目を輝かせて眺めていた。

 1964年 2月 6日(木)出来上がったF1を、荒川のテストコースで走らせる日がきた。河川敷にホンダが造った 2.2kmの少し「く」の字に曲がったコースは、両端にUターンができるスペースと、雨風を避けるテントがひとつ置いてあるだけの寒いところだった。

 11時28分、まず、中村良夫所付(1964年度F1監督)が各部をチェックしながら慎重にニ往復試走。5速ギヤで8500 rpmまで回転をあげた。
175km/hだった。

 11時50分、点検が終わっていよいよオヤジさんが走りだした。

 幅5m位の盛り土を舗装した狭いコースの上では、さすがのオヤジさんも無理はしない。エンジンの調子を確かめながら、車をいたわるようにニ往復した。

 「エンジンが丸く回っていないぞ(各シリンダーが出す力にバラツキがある)」
と、一言、苦情は言ったが、スズカ・サーキットで走らせるのが楽しみだと、車を降りた。

 この時のF1の色は、まだゴールド・メタリックではなかった。塗装の色が決っていない車に塗る白色だった。

 話は4年前の1960年にさかのぼる。

 イギリス・マン島のTTレース用に250cc.4気筒のバイク・エンジンを設計していた。クランク・シャフトのカウンター・バランスをなんとかコンパクトにまとめて、コンロッドを短くしたいと悩んでいると、オヤジさんに、
「金でも白金でも、重たい物を埋め込めばいいじゃねぇか!」 と、いわれてしまった。

 勝つためには、いくら金がかかってもいいから何でもやれということだ。

 さて、世の中にはどんな重たい物があるのか調べてみた。しかし途中から気になって、値段も調べた。結果は次のようなものだった。

  密度 g/cm3 価格/g
白金 21.37 1050円
19.3 585円
タングステン 19.1 2.3円
11.34 0.2円
7.86 0.153円

 この表をオヤジさんに示して、
「密度はすこし少ないけど、タングステンで如何でしょうか」 と、伺いをたてた。
「うん、それにしろ」

 金でも白金でもといったオヤジさんの顔にも、ほっとした表情が微かにうかがわれた。
それ以降、ホンダのレース用エンジンのクランク・シャフトには、F1を含めて全て、タングステンのカウンター・ウェィトが埋め込まれるようになった。

 金に厭目をつけずに造ったF1を「金色に塗れ」とオヤジさんがいいだしたとき、少し成金趣味的なところはあるが、その気持も分からないわけではなかった。

 ところが、デザインのメンバーはオヤジさんの言葉に輪を掛けて、キラキラ光る金粉入りのゴールド・メタリックで塗った。
 組立室の蛍光灯に照らし出されたゴールド・メタリックのF1は、真に黄金色に輝いていた。

 そのゴールド・メタリックのF1を初めてスズカ・サーキットに運び込んだのは、2月16日。日曜日にもかかわらず、早速、走り出したのはいいが、ウォーター・ポンプからは水が漏れ、スパーク・プラグのグロメットはオイルが滲み、エグゾースト・パイプにはヒビがはいってしまった。

 それらを夜遅くまでかかって改修し、翌日も走った。しばらくすると、シリンダー・ヘッドのサイド・カバーやクラッチからオイルが漏れ出した。そして夕方、シフト・ロッドの細いところが折れて、走行出来なくなってしまった。

 次の日は2月18日。オヤジさんが藤沢副社長を連れて見にくることになっていたのだ。全員、顔面蒼白、黙り込んで顔を見合わせた。

 その頃、新しい車が出来ると、めったに研究所には来ない藤沢さんを呼んで、沢山売ってもらおうと、オヤジさん自ら懇切丁寧に説明していた。まるでプロジェクト・リーダーが社長に説明しているように見えたものだ。

 「横に寝てるのが、“買ってもいいわよ”と、いうようなクルマにしてくれ」
と、スーパー・カブのデザインに、藤沢さんから注文を付けられていたオヤジさんは、女の人がスカートでも乗れる形のモックアップモデルが出来た時、大変喜んで、
「専務を呼べ」
と、叫んだそうだ。当時、藤沢さんは専務だった。

 駆け付けた藤沢さんに、得意になって説明したオヤジさんが、
「どれくらい売れるかなあ?」
「まあ、三万台だな」
「年間三万台?」
「いや、月にだよ!」

 日本のバイクが全メーカー合わせて月に四万台ぐらいしか売れていなかった時に、1モデルで三万台。

 しかし、学卒の初任給が一万五千円ぐらいの時代に、五万五千円もしたスーパー・カブは爆発的に売れた。生産が追いつかず、鈴鹿に新しい工場を建てることになった。

 それから四十年以上、大きなモデルチエンジもせずに、世界中で二千九百万台を越えて売れ続けている。藤沢さんの眼に狂いはなかったのだ。

 その藤沢さんに、「シフト・ロッドが壊れて、今日は走るところを、お見せできません」などとは、口が裂けても言えない。早速、研究所に電話をかけ、一晩で丈夫なシフト・ロッドを造って、持って来てもらうことにした。

 その頃、オヤジさんに「すぐやれ」と、言われた物は、他の物を押し退けてでも、徹夜してでも、大至急、作らなければならなかった。図面に大きく赤字で「特」と書き、丸で囲って「マルトク」と呼んだ。

 その太いロッドを「マルトク」で造って、待たせてあったタクシーに新村さん自ら飛乗った。

 1968年に東名高速道路の一部が開通する4年も前のことだ。深夜の国道一号を飛ばすしかなかった。埼玉の和光市から鈴鹿の我々の宿舎に、新村さんが辿り着いたのは午前3時。
飛び起きて、車体からエンジンを降ろし、分解して待っていたトランスミッションに、シフト・ロッドを組み込んだ。エンジンを搭載してリヤ・フレームを付けた。ドライブ・シャフトやサスペンションを組み立てて調整が終ったのは、ちょうど昼の12時。食堂へ急いだ。

 昼食を済ませてサーキットに戻ると、社長と副社長がメインスタンドに現れた。中村所付はショートコースを3周、ロングコースを3周、無事に走って見せた。

 連日の寝不足と昼飯の満腹感で落ちてくるマブタを引っ張り上げながら、サーキットを走っているF1を眺めていた。

 背景が冬枯れで黄茶色のせいか、どんより曇って日が射さないからか、ゴールド・メタリックが全然光って見えない。
「レースが始まる緑の春になれば、きっと鮮やかな金色に輝いて見えることだろう……」、と考えている間に、またマブタが落ちてきた。