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丸野エンジニアの手記
オヤジヨロコブ

 1964年1月30日の記者会見で、本田社長はF1レースに出場することを正式に発表した。その席で、エンジン出力は 200馬力以上だと喋ってしまったらしい。

 実を言うと、研究所では未だ 200馬力だせないで困っていたのだ。
 実現していない目標を、あたかも達成した実績みたいに社外で公言し、
「オレは言っちゃったからな。頼むよ!」
 と、社内の皆にハッパをかける常套手段を、オヤジさんはまた使ったのだ。

 オヤジさんを世の中の“嘘つき”にする訳にはいかないから、その高い目標をどうしても達成しなければならない。オヤジさん自身も“嘘つき”と言われたくないから、一生懸命だ。これからオヤジさんのアイディア攻勢がますます激しくなる。
 私達は覚悟してかからなければならなかった。

 オヤジさんは、私が図面を描いている製図版のところにも来て、
「マルさん、ここんとこはなぁ、こういうふうにすればフリクションが減って、もっと馬力が出るんじゃねぇのか?」」
と、昨夜考えついて、嬉しさの余り眠れなかったアイディアを、そこにあった赤鉛筆で、図面に書き込んでしまった。

 「あそこは、何かもっと良い構造に出来るはずだ」と、フトンの中でうとうとしながら、あれこれ考えているうちに、
「こうしたらどうだろう!」と、無意識の霧の中からムックリ、見慣れない構造が顔を出すことがある。
「そうすると、こっちがうまくいかない……」
「それじゃ、こうすればいいじゃないか」

 ひとつのアイディアが芽を出すと、嬉しくなったアタマは冴えて回転が速くなる。少しぐらい欠点があっても、すぐ改良案を見出だして、どんどん進化していく。

 これが始まったら、神経が高ぶって、夜が明けるまで眠らせてもらえないのだ。
 オヤジさんも昨夜は、このてのアイディアにつかまったらしい。

 「そうですね、分かりました。やってみましょう」
と、言ったものの、オヤジさんの赤鉛筆は力が入っているので、砂入り消しゴムでも消すのが大変。悪くすると赤鉛筆が消える前に、トレーシング・ペーパーに穴があいてしまう。 しかし、あんまり丁寧に時間をかけているわけにはいかない。オヤジさんの意見を入れて計算をやり直し、寸法を決めて、今夜のうちに図面をキチンと書き直して置かないと、明日の朝には、
「あれはどうなった?」
と、必ず現れる人なのだ。

 ぱったり顔を合わせた時に、
「あれはどうなった?」
と、聞かれて、宿題が一つの時はまだ幸いだが、複数の場合には注意が必要だ。

 頭の中で、オヤジさんの関心が一番高く、昨夜も考えていたのはどの宿題かを、瞬時に判断して答えなければならない。優先順位を誤ると、
「それじゃねぇんだよ! オマエは何が大事か分かっているのか」
と、機嫌を損ねて、物事がうまく進まなくなってしまう。

 ある日、私に出された注文を、
「はい分かりました、早速取り掛かります」
と、気前良く引き受けた後、トイレに行って小用を足していると、隣に人影が現れて、
「マルさん、あれは急いでくれよなあ」
と、おっしやる。
「ハイ」
と、いったものの、不意をつかれて“私の用”は止まってしまった。

 新しいアイディアを思い付くと誰でも、一刻も早くその結果を知りたいものだが、それにしても、大変せっかちな人なのである。
「どんなに画期的なアイディアでも、出願が一秒遅ければ特許は取れないんだぞ」
「いくら進んだ技術でも、開発スピードが遅ければ、他者に追い付かれて先進技術じゃなくなる」
「特にレースじゃ、次のレースに間に合うか、一週間遅れて他車に先を越されるかで、勝敗は決まってしまうんだぞ」

 急ぐことが他者を置き去りにして発展する最善の方法だと思っているオヤジさんは
「時間を稼げ!」と事あるごとに言っていた。
 レースは、開発からチェッカード・フラッグまで、正に“時間を稼ぐ競争”なのだ。

 オヤジさんのアイディアが、あちらにも、こちらにも、雨霰と降り注ぐ中、我々も負けずに様々な妙案をひねり出していた。
 ピストンの剛性を上げたり、燃料ジェットの穴径や向きをかえたり、冷却水の配分を変更したり、特性を変えたバルブスプリングを試したり、いろいろな長さや太さの吸気管や排気管を組み込んだりして、徹夜まがいのテストを繰り返していた。

 そんな日が続くなか、 2月13日には、バルブ・オーバーラップ特性を変えたカムシャフトをテストすることになっていた。
 いつものようにエンジン・テスト室へ行ってみると、もうすでに、新村さんや八木さん達、それにオヤジさんまで来ている。エンジンの馴らし運転をしているダイナモ室の前で、例によって、オヤジさんが冗談を飛ばして皆を笑わせている。

 設計者がテストに立ち会うのは、そこに現れるオヤジさんに、テストの目的や内容を誤解されないように説明して納得してもらうためだった。

 納得してもらえないと、
「そんなテストはヤメッチマエ! 時間と金の無駄使いだ」
と、怒鳴られて、手間暇かけて作った高価な部品を、オヤジさんの目の届く所ではテストできなくなる。

 また、テストの途中や終わった後など、ところかまわず出てくるオヤジさんのアイディアの真意を確かめて、間違いのない部品を手配しなければならない。時々、我々凡人とは狙いが違ったりするからだ。

 そして、このテストの次に、どんな部品を造ってどんなテストをやるか、「設計を呼べ」といわれる前に出頭して、決着を付ける狙いもあった。

 しかし、理屈にあわないアイディアに対しては、ていねいに、分かりやすく理由を説明して断らなければならない。失敗するとゲンコツが飛んでくることも覚悟して、である。
 これをやらないと、無駄な部品を沢山作って、無益なテストをやらなければならないからだ。

 「その代わりに、こうしたらどうでしょうか」と、代案を出して、オヤジさんの高ぶる気持ちを静めるのも戦術の一つだった。
 そうしないと、限りなく無く流れ出てくるアイディアの止めようが無いからだ。

 この辺の呼吸をわきまえるには、少々、時間と経験が必要だ。
 ある時、他の会社から移って来て間もない設計者が、理論に合わないと思ったオヤジさんのアイデアを、
「それはダメです」
と、アタマから否定した。
「やってみもせんで、分かるか。オマエはクビだ。明日から会社に来なくていい!」
と、どなられ、しょんぼりしょげて総務課長に相談に行ったところ、
「大丈夫大丈夫、明日になったら、ケロッと忘れてるから、心配するな」
と、諭されたことがあった。

 総務課長が言った通りだった。2〜3日すると、
「おい、どうだい?」
と、現れて、彼をドギマギさせた。
 やっぱり「オヤジ」は、親心を押し隠した我々の「親父」だったのである。

 ようやく慣らし運転が終わった。5000回転、6000回転、とメーターの針が安定するのを待って、各回転数ごとに出力を記録してグラフを描いていく。そのテスターの手元を、みんなで焦れったく見守っていた。今日こそは 200馬力を超えてくれと、オヤジさんも含めて全員、祈るような気持ちだった。

 10,000回転で 200馬力を少し超えた時、いつもなら冗談をいって茶化すオヤジさんも、「ウォー」と、小さな声でつぶやいたっきり、黙ってしまった。

 私の手帳の1964年 2月13日(木)のところには、
「16時45分、RA270初めて 200 ps突破
 210 ps/11,800を記録、オヤジ ヨロコブ
 My birth day」
と、書いてある。

 200馬力を飛び越えて 210馬力でたときには、オヤジさんがみんなの肩をたたいて、
「これで勝てるなあ!」
と、大喜びだった。しかもその日は私の誕生日で、私にとっては二重の喜びだった。

 さすがのオヤジさんも、この日一日だけは上機嫌で、何の注文も出さなかった。

 一日だけ、と言ったのは、次の週に現れたオヤジさんが、
「あすこんとこをこういうふうに変えれば 230は出るなぁ」
と、突飛なアイディアと引き換えに、目標を 230馬力に引上げてしまったからだ。

 この頃のオヤジさんの頭には、エンジンの構造がすっかり記憶されていたようだ。

 皇太子殿下が和光研究所を訪問したとき、出来上がったF1エンジンの組立図を製図版に張りつけて、描いている振りをしている私のところに、皇太子殿下を案内してきた。私を退かせて、自分が描いた図面みたいに得意になって、このエンジンの特徴を説明したものだ。

 だから会社に来て図面を見なくても、チョット目をつぶれば次から次へとアイディアが涌き出てきたのだ。

 しかし、やたらに赤鉛筆で図面に“落書き”されてはたまらない。大きい透明なトレーシング・ペーパーをもう一枚用意して、オヤジさんが近付いて来たら、さっと図面の上に被せた。
 その上から赤鉛筆ででもボールペンでも、思う存分描いてもらうことにしたのだ。