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丸野エンジニアの手記
チェッカード・フラッグ

 初めて造るF1のエンジンを、V型12気筒にすることは、案外簡単に決まったようだ。

 ある日、レーサー・エンジン設計のチーフで私の隣席の新村公男さんの所にオヤジさん(本田宗一郎社長)が、「どうだい」と現れた。

 いつものように製図板に肘をつき、右足をくの字に曲げて左足に絡ませながら、図面を眺めて話し込んでいる。そのうちに、エンジン性能研究のチーフで長身の八木静夫さんが呼ばれ、メガネの縁越しに見上げて意見を聞かれる。そんなことが2〜3回あって、
「やっぱりV12だな」
と、あっさり決まってしまったように記憶している。

 他社並の8気筒ではピストンが大きすぎて、ホンダの得意な高速回転・高出力には適さない。16気筒にするとピストンは小さくなるが、数が多いので、エンジン全体のサイズが大きく、重くなる。

 1500cc 12気筒だと1気筒当たり125ccだから、ホンダではバイクのエンジンで扱い慣れている。エンジン出力も 125ccエンジンの12倍として予想できる範囲だ。そして、V型にすれば、エンジンの長さも7気筒分位で、短くコンパクトに出来るからだ。

 最近の大きな会社では考えられないことだが、このような車の基本に関わる重要な決定をするのに、当時のホンダの研究所では、会議を開くようなことはまったくなかった。

 オヤジさんは、その道一番の専門家をつかまえて意見を聞き、自分で考えて自分で決めた。ネクタイをするのが嫌いだったように、形式張って会議を開き、働いている者の時間を無駄にするようなことはしなかった。

 「決まったよ」といえば、それは「オヤジさんが決断した」という意味だ。物事はすべて前に進んだ。通達など出す必要はなかった。

 エンジンの大きさは、エンジンの背骨であるクランクシャフトの設計で決まるといっても過言ではない。F1エンジンの全体レイアウトを検討しはじめた新村さんが、まず最初に取り掛かったのも、クランクシャフトの構想設計からだった。

 その寸法が適正であるか否かを計算でチェックするのが、隣席の私の仕事だった。大学卒業3年目で、まだ計算の仕方を忘れていなかったからだ。バイクのレーサー・エンジンを設計した時からのコンビだから、どの部分の、どんな計算をしなければならないか、言われなくても分かっていた。

ここに、その時の計算書が残っている。「クランク撓み検討 370209 A-1」とある。昭和37年 2月 9日、朝一番(A-1)に始めた仕事らしい。

こんな計算書が個人の手元に残っていることについては、少々、説明が必要かも知れない。

よその会社では、計算書と図面を揃えて上司に提出しないと、図面に承認のサインが貰えない。従ってその図面の部品が作ってもらえない、と言われていた。

 ホンダではテストやレースの結果がすべてだ。計算結果がどうであろうと、図面にどう描いてあろうと関係ない。テストした結果は、オヤジさんの厳しい目の前に晒される。

 いや、オヤジさんは鋭い嗅覚で、壊れた部品の在処を嗅ぎつけて、やって来る。そして敏感な触覚と眼力で原因を言い当てる。計算書を差し出して、言い訳でもしようものなら、ゲンコツが飛んでくる。

 計算は、設計者が自分の設計した図面に自信をもつためのものだ。
 私が計算した結果を新村さんに告げると、
「そうか、よし分かった」
と、計算書には目もくれないで、図面を描き続ける。

 だから、その計算書が、今まで私の机の引出しに溜まって残っていた、という訳だ。

 クランクシャフトの強度や剛性、ベアリング容量等を、様々な角度からチェックして、V型12気筒エンジンの長さがドライバーの肩幅ぐらいに納まる目途がついた。

 これでコクピットの後に横置きにできる。オヤジさん共々ほっとしていた頃、私のところにモナコF1・GPレースのレギュレーション・ブックが届いた。

 この頃、日本では、東京オリンピックを目前に、カラーテレビの放送が始まったばかりで、ビデオはまだ出現していなかった。だから、ヨーロッパのF1レースが、日本で放送されるなんて考えてもみなかった。

 東京パリ・ツーリスト・クラスの往復航空券が44万円、初任給1万5千円の約30倍。実勢レートで1ドルが 400円、1ポンドが 900円。

 フランスで行われるサッカーのワールド・カップに、日本から大挙して応援に行くような経済大国になれるなんて、想像も出来なかった。

 だから、ヨーロッパでF1レースを見たことのあるのは、ホンダの中でもオヤジさんぐらいのものだった。

 日本の自動車雑誌に、F1レースの記事が載ることはほとんどなかった。丸善に送ってもらっていた外国の自動車雑誌に、たまに載る記事や写真を見る程度だ。

 二輪が主体で、エンジン車体合わせて21人のレーサー設計の中でも、F1やF1レースに関する情報は、きわめて初歩的なものだった。それを二輪GPレースの知識で補って、どうにかF1のイメージを作っていた。

 しかし、レースに参戦するのだから規則をもっと正確に詳しく知りたいということで、レギュレーション・ブックを取り寄せたのだ。

 農業機器設計や試作加工部門・テスト部門をふくめて700人ぐらいの当時の研究所には外国語の専門家などはいなかった。高校でフランス語が必修だった私が、ヨーロッパのレースに出かける二輪チームのために、ミシュラン・ガイドのフランス料理を少し訳したのがバレたらしい。レギュレーション・ブックも翻訳しろということになってしまった。

 ところが、手元に届いたレギュレーション・ブックの封筒は、切手の部分が切り取られていた。どんな切手が貼ってあったのか見たくなって、誰が切り取ったか聞いて歩いた。意外にも、そこを通りかかった白井孝夫研究所長が、
「丸野君、僕がもらったよ」
と、いって、所長室に招き入れ、大事そうに引き出しに入れてあった美しいモナコの切手を見せられた。封筒の切れっ端に張り付いたままだった。

 所長は、スーパーカブを造り始めた1958年、大和工場で生産技術課長をしていた。初期トラブルを解決して量産体制を整え、ようやく売れ出した翌年、
「暫くヨーロッパに行って来い。目的は自分で考えろ。期間もおまえが好きにすればいい」と、オヤジさんに送り出された。

 大学の経済を出た彼は工場施設はもちろんのこと、交通事情、駐車の仕方からファッションまで、あらゆるものを三か月も掛けて見て歩いた。

 ヨーロッパから帰国した役員でもない三十九歳の課長は、スーパーカブの新しい工場をつくる責任者に任命された。

 「白井君が欲しいという人材は無条件で出してくれ」と役員会に告げた藤沢武夫副社長の後押しもあって「今までにない合理的手法のマスプロ工場」を鈴鹿に建てたのだ。
モナコにも特別な思い出があったのかもしれない。

 会社で毎日10時まで残業し、家に帰って夜遅くまで辞書と首っ引きでレギュレーションブックを翻訳した。公式な自動車レースがほとんどなかった日本の言葉に、フランス語を置き換えていくのは、大変な作業だった。

 35年たった今でも忘れられない私の苦慮の末の訳語の一つが、「白黒市松模様の旗」文字をよく見てもらうと旗のデザインが分かってもらえると思ったのだ。

 チェッカード・フラッグと英語に訳しても、知っている人はほとんどいなかったし、何色の旗だか分かってもらえないと思ったからだ。最近の人は反対に、市松模様って何だか知らないかもしれない。

 二輪メーカーのホンダが、世界に認められる自動車メーカーを夢見てF1の開発を始めた1962年、日本は、パリ往復航空券の1/30しか初任給を払えない経済小国だった。