ヨーロッパ耐久レース Honda無敵艦隊の軌跡 1976~1979

2016-2017FIM世界耐久選手権(EWC)シリーズには、Hondaのマシン「CBR1000RR」を駆るチームとしてHonda Endurance RacingとF.C.C. TSR Hondaの2チームが参戦。最終戦の鈴鹿8時間耐久ロードレースまで続く全6戦のシリーズを戦っています。そのEWCの前身がヨーロッパ耐久レース。1970年代には、Hondaチームが4年間にわたってライダータイトルとメーカータイトルを独占し、その強さゆえに「無敵艦隊」と呼ばれました。ヨーロッパ耐久レースでのHondaチームの軌跡を振り返ります。

1978 RCBが待望の日本上陸
ヨーロッパ耐久選手権では3連覇を果たす

1978年 ボルドール24時間 スタートシーン
1978年 ボルドール24時間 スタートシーン

 ヨーロッパで無敵を誇るRCB軍団は、1978年の7月末に初開催される鈴鹿8時間耐久レースにも参戦を表明した。凱旋帰国する形になったRCB軍団は大々的に報じられ、鈴鹿8時間の初代ウイナーへの絶大な期待が寄せられた。日本には過去2年間のRCB1000の活躍によって耐久レースの楽しさを知ったファンが多く、そのマシンが走る姿を間近に見ようと鈴鹿サーキットに押し寄せた。一方、「打倒RCB」を目標に鈴鹿8時間への準備をしてきたチームも多く、一発逆転を虎視眈々と狙っていた。長丁場となる耐久レースでは、80%程度の力で走り続けることがセオリーとされていたが、打倒RCBを掲げるチームはスタートから100%の力を出す算段でいたのだ。

チャーリー・ウイリアムス (1978年 鈴鹿8時間)
チャーリー・ウイリアムス
(1978年 鈴鹿8時間)

 鈴鹿8時間に際して秋鹿監督は、日本にあった前年型の481エンジンを482フレームに搭載したマシンを用意した。主戦場であるヨーロッパ耐久レースの合間に開催される日本のノンタイトル戦に、最新型の482エンジンを日欧間で往復させることはスタッフにとって大きな負担となるからだ。当初は、ボルドール24時間を1ヵ月半後に控えた開催日程ではライダーに余計な負担が掛ることから、参戦すら予定していなかった。

クリスチャン・レオン (1978年 ボルドール24時間)
クリスチャン・レオン
(1978年 ボルドール24時間)

ジャン・クロード・シュマラン (1978年 ボルドール24時間)
ジャン・クロード・シュマラン
(1978年 ボルドール24時間)

ユベール・リガル (1978年 ボルドール24時間)
ユベール・リガル
(1978年 ボルドール24時間)

ジャック・リュック (1978年 ボルドール24時間)
ジャック・リュック
(1978年 ボルドール24時間)

 こうして迎えた鈴鹿8時間はスプリントレースさながらの展開となり、いわば24時間仕様であるRCB1000とチームの戦略は通用しなかった。2周目でHondaブリテンのウッズ/ウイリアムス組が転倒して戦線から離脱。Hondaフランスのレオン/シュラマン組は着実に周回を重ねたが、スタートから3時間を迎えるころ、67周目にバルブトラブルでリタイアした。ノンタイトル戦とはいえ、久しぶりに日本で開催された国際格式のレースとなった鈴鹿8時間で優勝したのは、スーパーバイク仕様のヨシムラ・スズキGS1000(ウェス・クーリー/マイク・ボールドウィン組)だった。2位はヨーロッパでRCB1000を追い続けていたヤマハTZ750(杉本五十洋/デビッド・エムデ組)で、3位はこちらもスーパーバイク仕様のモリワキ・カワサキZ1(グレーム・クロスビー/トニー・ハットン組)が入った。誰もが予想していなかったスプリンターたちの活躍の前に、耐久王者は敗退を喫した。逆に優勝したヨシムラは、ヨーロッパでのRCB1000のラップタイムなどを検討し、打倒RCB1000の戦略をひそかに練っていた。

 舞台は再びヨーロッパへ。この年、ル・マンからポールリカールに開催地を替えたボルドール24時間に、これが我々の主戦場と言わんばかりの万全の体制で8台のRCB軍団が挑んだ。マシンは再び482を投入。レースはパトリック・ポンス/クリスチャン・サロン組のヤマハTZ750が16時間過ぎまでリードし続けたが、クランクシャフトの破損によりリタイア。その後方で、無理をせず粘り強くチャンスをうかがっていたレオン/シュマラン組が603周を走って優勝を果たした。2位にHondaフランスのジャック・リュック/ユベール・リガル組、3位にウッズ/ウィリアム組のRCB1000が続き、表彰台を独占する完全勝利でボルドール3連覇を実現。実にトップ10に8台ものHondaマシンが名を連ねた。この勝利によって、Hondaは3年連続のメーカータイトルを獲得し、1951年のノートン以来27年ぶりとなる快挙を成しえた。さらに、最終戦のブランズハッチ1000キロでもウッズ/ウイリアムス組とレオン/シュラマン組が1-2フィニッシュを決め、ヨーロッパでは8戦8勝の完全勝利を達成した。

 Hondaが3年間の活動期間に残した成績は26戦24勝。落としたレースは参戦2戦目でトラブルが続発した1976年のル・マン1000キロと、1978年の鈴鹿8時間だけである。いずれもノンタイトル戦であるため、ヨーロッパ耐久選手権では3年にわたって無敗のチャンピオンであり続けた。この十分な成果を踏まえ、当初の目的を遂げたとしてHonda Endurance Racing Teamは解散することになった。Hondaには翌1979年からNR500で世界GPにカムバックするという、大きな次の目標も生まれていた。なお、レース経験がまったくないメンバーばかりで組織されたNR500の開発チームは、いわば予行演習という意味合いでこの年のボルドール24時間に481で参戦。デビッド・エムデ/ハインツ・クリンツマンのアメリカ人ペアによって9位という結果を残している。

ボルドール24時間3年連続優勝ポスター
ボルドール24時間3年連続優勝ポスター

 ここまで耐久レースのプロジェクトをリードしてきた秋鹿監督は、RSC(Racing Service Center=HRCの前身組織で、市販レーシングマシンやキットパーツの開発・販売を担当)の社長に異動。耐久レースの実質的な運営もあわせてRSCに移管され、同時にHonda Endurance Racing Teamから10名前後のメンバーがRSCへ移った。そして、翌1979年からはRSCが新型市販車CB900F(ヨーロッパ向け)/750F(日本および北米向け)のエンジンをベースに、RCBで得たノウハウを反映した新型マシンのRS1000を販売することになった。もともと、現地法人や限られた有力ディーラーチームに貸与されていたRCB1000は、可能な限りその国のライダーを乗車させ、地元での人気とブランドイメージの向上に寄与するという使命を帯びていた。そういう点では、RCBレプリカであるRS1000の市販化は、さらなるユーザーの獲得とレース界を構成する底辺層の拡大──プライベートライダーが活躍するチャンスを創出するという、新たな目標が込められていたことになる。

 また、RCBの活躍はマーケットにも大きな影響を及ぼした。1978年9月にヨーロッパで発売されたCB900Fの大ヒットである。CB900Fは苦戦が続くヨーロッパのマーケットを打開すべく開発された大型スポーツモデルで、サーキット最速をコンセプトにした軽量・コンパクトなエンジンと、それを搭載する車体の流麗なスタイリングが衆目を集めた。CB900Fのカタログの表紙にRCB1000と並べた写真を使うなど、RCBの快進撃をオーバーラップさせる販売戦略も功を奏し、CB900Fはヨーロッパ中で大人気となった。その余韻が覚めやらぬ1979年6月、日本国内向けにCB750Fが発売されると、こちらも当時の常識を覆す売れ行きを示した。通常の大型二輪の販売台数が月間100~150台ほどだったのに対し、CB750Fは発売した途端に月間1000台と桁違いの販売台数を誇ったのだ。ヨーロッパのみならず日本でも異例の大ヒットとなったCB-Fシリーズの人気は、やがて北米にも波及。新たなファンを創出し、ストリートだけでなくサーキットにも目を向けさせた。

CB750F
CB750F

ヨーロッパ耐久レース 1978年 リザルト