語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する / 1949

本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する / 1949

そして、藤澤武夫。文学青年が、凄腕の商売人に

藤澤武夫は、1910年11月10日、東京市小石川区(現、東京都文京区)に父・秀四郎、母・ゆきの長男として生まれた。
父の秀四郎は、銀行員などいくつもの職業を転々とした後、実映社という、映画館のスライド広告を製作する宣伝会社を経営していた。

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コンビを組み、大きな夢を語り合ったころの本田宗一郎(左)と藤澤武夫

藤澤が私立京華中学1年の時、関東大震災が一家をドン底に突き落とす。会社は焼失し借金だけが残ったという。その後、映画興行で再出発を試みた秀四郎だったが、震災後の過労から病に伏せがちな身となった。教師を目指していた藤澤は、東京師範を受験するが失敗。家族を養うために、筆耕屋(ひっこうや)を仕事にする。筆耕とは、宛て名書きである。暇な時間はひたすら文学書を読んだ。後年の藤澤からは想像できないが、口下手でシャイな若者だったという。
1930年に徴兵され、1年間を軍隊で過ごした後、再び筆耕屋生活に戻る。

藤澤が初めて定職に就いたのは、1934年9月だった。23歳になっていた。勤務先は、日本橋・八丁堀の三ツ輪商会という鉄鋼材の販売店だった。小規模な工場に鉄鋼材を斡旋(あっせん)する仕事で、藤澤は売り込みに歩くセールスマンであった。人付き合いが不得意なはずの彼が、なぜこの仕事を選んだかは、
「直感で、おれの行くべき道と思った」
という言葉以外、語られていない。

しかし、隠れていた能力は一気に開花する。次々に得意先を開拓し、売り上げ成績でトップになる。得意先には誠心誠意をモットーにし、もし納品期日が遅れそうな時は、その場しのぎの言い訳をせず、正直に理由を述べて詫びた。これがかえって藤澤への信頼を高めた。詫びと同時に解決策を用意し、必ずそれを守った。
このエピソードは、印象的である。後年の藤澤を髣髴(ほうふつ)とさせるからである。

一方、値動きの激しい鉄鋼材を扱うからには、投機的な才覚も必要だった。競争の激しいこの仕事での9年に及ぶ経験で、藤澤はそれを身に付けていった。三ツ輪商会の店主が軍隊に召集された留守中は、藤澤が代わって経営を引き受けるまでになる。

やがて藤澤は、仲介商売の限界を感じ取った。三ツ輪商会の番頭役を勤めるかたわら、将来の独立を目指し、1939年、切削工具を製作する日本機工研究所を設立する。技術に素人の藤澤が苦労した末、製品化にこぎつけたのは1942年4月、3年後のことだった。ちょうど店主の町田清氏が軍隊から帰って来たのを機会に、藤澤は三ツ輪商会を辞し、独立した。この年の秋、取引先の中島飛行機から、板橋の工場へ切削工具の検査に来たのが、竹島弘である。
竹島は、やはり中島飛行機にピストンリングを納入していた東海精機重工業の本田を、よく知っていた。浜松に本田という天才技術者がいるという話を、藤澤はこの時に聞かされたという。

1945年6月、藤澤はかろうじて空襲の被害を免れた工場を、福島に疎開させる決意をする。運送貨車の許可に手間取って、機械を福島に運んだその日、戦争が終わった。

藤澤の判断は早かった。戦後の日本では切削工具より建築用木材が商売になると山林を買い、福島で製材業を始めることにした。しかし、いつかはビジネスの中心地・東京へ復帰するつもりだった。折りあるごとに上京し、チャンスをうかがっていたのである。

1948年の夏、製材所の機械部品を買いに東京へ来た藤澤は、市ケ谷の駅近くで、竹島と偶然、再会する。竹島は通産省の技官になっていた。立ち話の中で、あの浜松の本田が、自転車用補助エンジンの製造を始めたことを聞かされる。竹島は、藤澤に帰京を促した。

藤澤は、福島に戻ると日本機工研究所の機械を売り払い、製材所も閉めて帰京する。ただちに池袋で材木店を開き、まず生活の基盤を固めた。
翌年の夏、竹島から連絡があった。本田と会ってみないかという話であった。