語り継ぎたいこと 〜チャレンジの50年〜

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『失敗を恐れたらチャレンジはできない』。
本格的2輪車・ドリームD型登場 / 1949

『失敗を恐れたらチャレンジはできない』。 本格的2輪車・ドリームD型登場 / 1949

Hondaのモーターサイクルの累計生産台数は、1997年10月に1億台を突破したが、その最初の1台は、1949年8月にデビューした、このD型から数えられる。ドリームという、Hondaを象徴するかのような名前を与えられたD型は、Hondaがモーターサイクルメーカーになった夢の証しだった。このネーミングの命名者は今は判然としない。

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ドリームD型の画期的な特長は"手によるクラッチ操作をなくす"ことにあった。一見クラッチレバーに見える左手のレバーは、前輪のブレーキレバーである

「忘れちゃったよ。今に世界のHondaになる、って、おれが夢みたいなことばかり言ってたから、だれかがドリームって言い出したんだろ」
と、後年、本田は言っている。

「おやじさんは、やっぱり、うれしかったと思いますよ。ちゃんとしたオートバイですから」(河島)。

D型エンジンの設計図も、河島が担当した。
D型はC型からの発展型だったが、外観にはもう補助エンジンの面影はなく、モーターサイクルにふさわしいデザインに進化していた。D型の組立ラインには、動力式ベルトコンベヤーも採用された。自製の独特のものだった。

「傾斜したラインで、組立工程に従って高い方から低い方へ流れるんです。作業する人間の姿勢を楽にする工夫ですよ。スイッチを押すとベルが鳴って、1工程分動くんです」
と、磯部は言う。量産体制への、さらに積極的なチャレンジが始まっていたのだ。

「けれど、前にも言ったように、部品の精度がまだまだですから、手加工修正が必要で、コンベヤーがすぐ止まっちゃう。でも、このチャレンジと経験のおかげで、組立ラインに渡すのはノー加工部品という基本思想が、みんなの心の中にしっかり染み込んだんです」。

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1956年、雑誌『科学朝日』12月号で紹介された浜松・野口工場と東京工場でのD型のコンベヤーラインによる量産工程。「小型2輪車は昨昭和25年度生産台数3439台のうちの876台を生産し、26年度には月産700台という、この世界には考えられなかった量産に達した会社がある。自由貿易が近づくと、まずコストの問題が叫ばれるが、これを引き下げることはどの部門でも難しく、ことに規模の大きな会社などでは、それが一層困難なことは周知の事実である。何らかの特殊な工夫がなければ、企業の合理化は容易なことではない。ここにH技研工業に、その実際をさぐってみた。工員僅か150名がヨーロッパオートバイ工業技術にも見られないダイキャストで、エンジンのすべてを作って大量生産を行っていたが、この辺にも生産台数の増加のカギがあるのではなかろうか」(本文記事より抜粋)というリポート記事が掲載されている

当時、国産のモーターサイクルは、すべて鋼管フレームだった中で、ドリームD型は、鋼板をプレスしたチャンネルフレームを採用していた。しかも、2輪車は黒い塗装と相場が決まっていたこの時代に、本田の好みで美しいマルーンカラーに塗られた。D型は、道路でひときわ目立って、Hondaの名を大いにアピールした。売れ行きも、出足好調だった。

「プレス鋼板のチャンネルフレームを採用したのは、質のいい鋼管が手に入りにくいこともあったが、おやじさんの目標は、生産のスピードアップと、工程の合理化だったんです。プレス化は、ダイキャスト化と並んで、おやじさんの日ごろの掛け声であり、信念の工法でしたね。パイプに比べれば、つくる手間が全然違うし、均質化もできる。溶接箇所も少なくて済みます」
と、河島は言う。

「でも、あのフレーム形式は独創じゃないんです。1920年代以来、ドイツや欧州のいろんなメーカーで使われてたし、日本でも戦前のミヤタが同形式。先輩車を参考にすることは、さしも人マネが大嫌いなおやじさんでも、初期には結構あった。ただし、丸写しのデッドコピーは、意地でもやっていません。だからD型にも、いかにもおやじさんらしい新しいアイデアが入っている。それは画期的と言えるアイデアでした。ですが、そのせいもあって、発売当初こそよく売れましたけど、どんどん売れ行きが落ちちゃった」(河島)。